2012年11月22日木曜日

Mon toutou Koston


 10月12日にコストン(愛犬)は天国に旅立っていきました。以前もこのブログでコストンの病気についてふれましたが、彼(夫)と何度も話し合い、最終的に「安楽死」の決断をしました。リオネルとコストンの関係をご存知の方は、彼にとっていかに苦渋の決断だったか、ご理解いただけるかと思います。
 
 日々無我夢中で介護をしていると、何がコストンにとって一番いいことなのか、自問自答するようになりました。麻痺は全身に及び、寝たきり、床ずれもでき、薬も段々利かなくなり…。このまま薬漬けにすることがいいことなのか、最期まで看取れば、最期までみたという満足感は私たちに残るかもしれない、でも果たしてそれがコストンにとって一番いいことなのか、家族として何ができるのか。犬語がわかればよかったのだけれど、いつも答えの出ない問いかけをしていたように思います。

 かかりつけの獣医さんに「犬は苦痛を訴えないけれど、私たち人間と同じように痛みを感じている。今回は後戻りをしないで、コストンの為に決断を…」と言われました。それでもコストンはリオネルの為に必死に生きようとしているようにみえたので、なかなか決断ができませんでした。ある日彼に「もう迷ってはいけない、僕たちがコストンと一緒にいたいからといってこれ以上引き止めるのはよそう、楽にしてあげよう」と言われました。いつか決断しなくてはいけない日がくることを心のどこかで覚悟をしていましたが、涙が止まりませんでした。突然の病気も辛いですが、徐々に悪化する麻痺も酷いです。

  日本では「安楽死」に対してマイナスのイメージがあるかもしれませんが、フランスでは「救い」です。「ペットは人間とは違う」という大前提があり「最後まで苦しめてはいけない」という意見が主流です。勿論愛するペットの為に最期まで診てあげるのも「愛情」だし、苦しんでいたら楽にしてあげるのも、また「愛情」だと思っています。どちらにしてもペットを飼うということは最期まで責任を持つということ。今は彼の腕の中、コストンは安らかな気持ちで天国に旅立てたのではないかと思っています。

 以前も書きましたが、フランスでは犬が不治の病にかかった場合、早い段階で安楽死の決断をしてしまう人が多いです。歩行器をつけてまで飼う人はいません。私は今でもそれには反対で す。コストンは後脚を引きずりながらズリズリ歩いていましたが、それでもお散歩は好きでした。生きる気力のあるうちはその意思を尊重してあげたいと思っていました。でも残念ながらフランスではそういう状態で飼い続けることは飼い主の「エゴ」だと判断されます。 
 歩行器をつけて散歩していた時、何度か道端で見知らぬ人に「お宅のワンちゃんは苦しんでいる、早く獣医に連れていき安楽死の決断をしてあげた方がいい!」と言われました。これにはフランス人で ある彼でさえ不快に思うのですから、日本人である私は尚のことdeçue(がっかり)でした。「Handicapの犬でも生きる資格はあるのよ!」「どうして見て見ぬ 振りができないの?」「犬の介護は正直エゴだけでやれるほど簡単ではない。愛情がなければできるものではないのに…。」と悔しく思いました。フランス人は割りと心に思ったことをすぐに口にする人が多いのですが、でもこれが文化や習慣が違う国で暮らすということなんだなぁ と痛感しました。でも逆にあたたかい眼差しで見守ってくださるご近所の方もいて、特にMamie(おばあちゃん)やPapie(おじいちゃん)。中にはコストンが散歩していると、窓から手を振り親指をたてて「bravo bravo!!!」と言ってエールを送ってくださるマダムもいました。そういう励ましは私達だけでなくコストンにも届いていたと思います。
 
 フランス語でMon toutouとは、僕(私)の愛しのワンちゃんという意味ですが、「Mon toutou、koston。最後まで麻痺と戦いよく頑張ったね」と褒めてあげたいです。
 これまでコストンのことを心配してくださった方々、また可愛がって下さった方々に、心から感謝いたします。心の整理がつかなくて報告が遅れたことお詫びいたします。
 
私のフランス生活で初めてできた大切な家族。
できることならまた抱きしめたい。